テキスト
Martan trompis kaj forlasis ĉio, kio, venante de ekstere, ĝis nun estis por ŝi amika kaj protekta. La sorto, kiu ŝin trafis, tute ne estis ia sorto escepta, ŝia malfeliĉo ne havis sian fonton en ia stranga, neordinara okazintaĵo, en ia miriga katastrofo, kiu malofte aperas en la historio de la homaro. Financa ruiniĝo kaj morto ĝis nun ludis en ŝia vivo la rolon de detruantoj de la trankvileco kaj feliĉo. Kio do estas pli ordinara? Kio precipe ĉe ni estas pli ordinara ol la unua?Kio estas pli ofta, pli neevitebla ol la dua?
Marta renkontiĝis vizaĝo kontraŭ vizaĝo kun tio, kun kio renkontiĝas milionoj da homoj, milionoj da virinoj. Kiu ne renkontis ofte en sia vivo homojn, kiuj ploras super la riveroj de Babilono, ĉirkaŭfluantaj la ruinojn de ilia perdita bonstato? Kiu povas prikalkuli, kiom da fojoj en sia vivo li rigardis funebran veston de vidvino, palajn vizaĝojn kaj larme lacigitajn okulojn de orfoj?
訳
(SŜ)
これまで外から来た彼女を友好的で守ってくれたすべてのものが、マルタを騙して捨てました。彼女に降りかかった運命は、決して例外的なものではなく彼女の不幸の原因は、奇妙で異常な出来事や、人類の中で歴史上めったに現れない驚くべき大惨 事にあったわけではありません。経済的破滅と死が、これまで彼女の人生において平穏と幸福を破壊する役割を果たした。それでは、より一般的なものとは、何でしょうか?特に、最初のもの(経済的破滅)より普通のこととは、何でしょうか?2つ目(死)よりも避けられないものは何でしょうか? マルタは、何百万もの人々、何百万もの女性が出会う出来事を体験してきました。
失われた富の廃墟の周りを流れるバビロン川の前で、泣く人々にこれまでの人生で会ったことのない人がいるでしょうか?自分の生涯で、青ざめた喪服の未亡人や泣きつかれた孤児を何度みたか数えらるのでしょうか?
経過
1. Martan trompis kaj forlasis ĉio, kio, venante de ekstere,ĝis nun estis por ŝi amika kaj protekta.
(SŜ)
マルタをだまして、これまで外から来た彼女にとって友好的で守ってくれたものをすべて捨てました。
(UK)ここはĉio=kio以下がMartaを「騙して捨て」ました。
ĉio trompis kaj forlasis Martan,|
kio estis amika kaj protekta.
|– venante de ekstere
|– ĝis nun
|– por ŝi
(SŜ)
すべてのものが、マルタをだまして、これまで外から来た彼女にとって友好的で守ってくれたものをすべて捨てました。
(UK)
Martan trompis kaj forlasis ĉio, kio, venante de ekstere, ĝis nun estis por ŝi amika kaj protekta.
ここではtrompis kaj forlasisが共にĉioの動詞で、その目的語も共にMartaです。kio以下はĉioの内容です。
すべてのものが、マルタをだまして、これまで外から来た彼女にとって友好的で守ってくれたものをすべて捨てました。
⇒[これまで外から来た(⇒て)彼女にとって友好的で守ってくれたもの](ここがkioで以下で、主語ĉioの内容ですね)
をすべてすべて(主語です)のものが、マルタをだまして 捨てました。
(SŜ)
これまで外から来た彼女を友好的で守ってくれたすべてのものが、マルタを騙して捨てました。
2. La sorto, kiu ŝin trafis, tute ne estis ia sorto escepta, ŝia malfeliĉo ne havis sian fonton en ia stranga, neordinara okazintaĵo,en ia miriga katastrofo, kiu malofte aperas en la historio de la homaro.
(SŜ)
彼女に降りかかった運命は、決して例外的なものではなく彼女の不幸の原因は、奇妙で異常な出来事や、人類の中でめったに現れない驚くべき大惨事にあったわけではありません。
(UK)大体良いと思いますが、「人類の中で」だけでなくhistorioも入れた方が良いでしょう。
(SŜ)
彼女に降りかかった運命は、決して例外的なものではなく彼女の不幸の原因は、奇妙で異常な出来事や、人類の中で歴史上めったに現れない驚くべき大惨事にあったわけではありません。
3, Financa ruiniĝo kaj morto ĝis nun ludis en ŝia vivo la rolon de detruantoj de la trankvileco kaj feliĉo.
(SŜ)
済済的破滅と死は、これまで彼女の人生において平穏と幸福を破滅する役割になった。
(UK)
detruantojと-antにすると「detruiする人(もの)」という意味になります。
ludi la rolon de detruantojの訳を工夫してみてください。
(SŜ)
経済的破滅と死が、これまで彼女の人生において平穏と幸福を破滅する役割を果たした。(UK)
de detruantoj 破滅する⇒破壊者の aŭ 破壊する、ではどうでしょうか。
(SŜ)
経済的破滅と死が、これまで彼女の人生において平穏と幸福を破壊する役割を果たした。
4. Kio do estas pli ordinara?
(SŜ)
それでは、より一般的なものとは、何でしょうか?
(UK)
大差はないかもしれませんが「一般的な」というと他の語を連想しそうなので次の文と同じ訳でいいのではないでしょうか。
5. Kio precipe ĉe ni estas pli ordinara ol la unua?
Kio estas pli ofta,pli neevitebla ol la dua?
特に、最初のものより普通のこととは、何でしょうか?
2つ目よりも避けられないものは何でしょうか?
(UK)訳はこのままでいいと思いますが確認です。
「最初のもの」、「2つ目のもの」とは何ですか?
(SŜ)
最初のもの(経済的破滅)
2つ目(死)
6. Marta renkontiĝis vizaĝo kontraŭ vizaĝo kun tio, kun kio renkontiĝas milionoj da homoj, milionoj da virinoj.
(SŜ)
マルタは、何百万もの人々、何百万もの女性が出会う人々と直接会ってきました。
(UK)
マルタが出会ったのは人々ではなくて、その人々が出会うもの(事柄)に出会いました。
Marta renkontiĝis vizaĝo kontraŭ vizaĝo kun tio,
|
kun kio renkontiĝas milionoj da homoj, milionoj da virinoj.
(SŜ)
マルタは、何百万もの人々、何百万もの女性が出会う出来事を体験してきました。
7. Kiu ne renkontis ofte en sia vivo homojn, kiuj ploras super la riveroj de Babilono, ĉirkaŭfluantaj la ruinojn de ilia perdita bonstato?
(SŜ)
失われた富の廃墟の周りを流れるバビロン川を、渡って泣き叫ぶ人々にこれまでの人生であまり、会ったことのない人がいるでしょうか?
(UK)
kiuj ploras super la riveroj de Babilono
川を渡ったわけではなく、川を前にして泣きます。(川に覆いかぶさるように・・・といった感じだと思います。)
なぜ突然ここにバビロンの川が出てくるのかというと、どうやら旧約聖書の文を下敷きにした表現のようです。
旧約聖書:「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。」
バビロンの捕囚の物語はポーランドの人にとっては基礎知識のようです。こういうところがちょっとひっかります。
あ、そうか。原作者はまさか日本人が読むとは思っていなかったんだ。
(SŜ)
失われた富の廃墟の周りを流れるバビロン川の前で、泣く人々にこれまでの人生で会ったことのない人がいるでしょうか?
kiuj ploras super la riveroj de Babilono
(UK)
思い出しましたが、このsuperの使い方は前にも出ていました。
fenestro super la korto :中庭に面した窓
8. Kiu povas prikalkuli, kiom da fojoj en sia vivo li rigardis funebran veston de vidvino, palajn vizaĝojn kaj larme lacigitajn okulojn de orfoj?
(SŜ)
彼女の生涯で、青ざめた喪服の未亡人や泣きつかれた孤児を何度みたか数えらるのでしょうか?
(UK)
kiom da fojoj en sia vivo li rigardis…
彼女の生涯で、
en sia vivo li rigardis … でsiaは liを主語としてその人の生涯でということなので
自分の生涯で、とするのが妥当だと思います。
(SŜ)
自分の生涯で、青ざめた喪服の未亡人や泣きつかれた孤児を何度みたか数えらるのでしょうか?
(SŜ)
疑問点があります。
文章の中で、何回かnunと出てきますが、これは、必要なのですか?
(UK)
今回の範囲では ĝis nunという形で出てきています。
kio,venante de ekstere, ĝis nun estis por ŝi amika kaj protekta
Financa ruiniĝo kaj morto ĝis nun ludis en ŝia vivo la rolon de detruantoj
・・・これまでのところ彼女に好意的で守ってくれていたものが・・・(外から来て守っていたものがなくなった)
・・・これまでのところ破壊者としての役割を演じてきた・・・(それに応じて脅威となるものがむき出しになった)
・・・今まではマルタ自身の能力や努力は関係なく進展してきました。これから先はマルタ自身が内に持っているもの次第・・・という感じで物語が展開していくのだと思います。
幸不幸の変転のありさまを述べているので、その区切りを示すために”ĝis nun”は効果的に働いていると思います。
(SŜ)
説明ありがとうございました。
よく、わかりました!
通勤電車の中から